2026年 心のもちかた

こんなに心がはずまない新年はこれまでになかったのでないかと思いながら、元旦は朴沙羅さんの『ヘルシンキ 生活の練習はつづく』を読んで過ごした。

数年前に初めて『ヘルシンキ  生活の練習』を読んだ時、あぁ、こんな素晴らしい本が世の中に出たのなら、もうなんだか私などが書くことはないなぁと思った。書かれているのはよいや悪いではなくて、違い。そんなにいいとこばかりではないけど、北欧に住んでいて伝える価値があるなと私も共感するような事柄が、小気味よい関西弁と共に綴られていた。

『練習はつづく』の方は、最初の本のおもしろさはそのままに、戦争、多様性と排外主義、国家、差別といった今いちばん私たちに重くのしかかる問題についてさらに深く語られている。本が出版されたのは2024年の8月だけど、その後起こってきたことをも予見するかのように、今の世界が抱える深い闇とそれに対して私たちができることを描く。

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私のこのブログは「ニュースで語るスウェーデン」という副題がついているが、2024年くらいから、それまで取り上げていたようないわゆる普通のニュースを読んだりみたりする事が減り、故にブログの更新も滞った。

毎日のトップニュースとして上がってくるのは戦争や人々の惨状を伝えるものか、これまで私が当然と考えていた世界や秩序が、アメリカの大統領の発言や行動などで崩れ去っていくような話ばかり。

悲観的になり、ため息をつくことでなんとかしのいでいた私を、決定的に奈落の底に落としたのは、「毎日Youtubeを見るのに忙しい」と言っていたごく身近な人から、私のそんな態度をなじられた時だ。

「上から目線で、自分は正しいと思っている。左翼のオールドメディアの偏った報道にしか接しておらず、日本が今どんなにひどいことになっているかなど、本当のことを知らない」、と言われた。

「川口市は不法滞在の外国人でとんでもないことになっている。南京虐殺で殺されたと言われている人数がどれだけ辻褄があっていないか、知っているか?」といろんなことを立て続けにまくしたてられ、どうしてそんなことを言うのか質問をしようとすると「質問するな!」と拒絶された。そして「もっと勉強しろ」と言われ、一方的に会話を打ち切られた。その人は私がずっと友だちだと思っていた人なので、直後から深く悲しくなり、それは今でも変わらない。

もっと勉強しろといわれたので、その10月の日から今日まで、わたしなりの方法で勉強した。これまでいまいち曖昧だった漢字3つの様々な単語(張作霖、柳条湖や盧溝橋)の年代や関連性をもう一度きちんと頭に畳み込むことができたのもよかったかもしれないが、この2,3ヶ月で、それよりもよかったことは、きっと私に覚悟のようなものができたことだろう。

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歴史を振り返るにつれ、今の状況もこれからもどんどん私がこうあってほしいと思う方向とは違う方向に向い、それを多くの人が支持するか、もしくは反対の声をあげないのだろうと思った。

このブログやニュースレターでも何回か書いたと思うが、これまで私は必要なときに自分が自分で正しいと思う行動が取れるかについて自分を信頼できていなかった。保身や身の安全のために、いざという時に日和った行動をとってしまうのではないか、でも信条が要因で、投獄されたり殺されてしまっては元も子もないのではないか、と頭の中で堂々巡りの問いを蒸し返していた。

ルンド大学の図書館で偶然『君たちはどう生きるか』を見つけて読んでみた時に、上記の私の問いは私だけが気になっているものではなく、この本がベストセラーになるほどみんなの関心があるものだと知って少し安心した。

「上から目線で、自分は正しいと思っている」と糾弾されるだけあって、私はこれまで自分のことを「マイノリティ」だと思ったことはなく、人とは違う選択をしてきたのだと思っていた。しかし統計数字を出すまでもなく、パスポートを持っている日本人にしたってたった17%ほどだそうだし、外国に住んでいる日本人に至っては1%ほどしかいない(朴さんならここで、「めっちゃマイノリティやん」と突っ込んくれるかな)。でもこの数字にしても17%もいるし、1%もいるとも言える。

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「福田村事件」の映画について読んだ時、夢をみた。(残念ながらまだこの映画を観ることはできていない)。正義感に駆られた多くの人がその正義感ゆえに「こいつらを殺せ!」といった時に、「やめろ!」といえなかった夢。そしてそれができなかったにもにもかかわらず、なぜか一緒に殺された夢だ。

しかし夢に見るほどのそんな恐ろしさも、10月の出来事があって以来、逆に少し怖くなくなった。おそらくは、私の身近にいる人たちも束になって、私が大切にしたいと思っている差別反対とかを一丸となって押しつぶしてくるのなら、それに向かい立ち、なじられたり殴られたり殺されたりしても、そっちの生き方のほうがいいな、と具体的に想像できるようになったからかもしれない。

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というわけで、私は相変わらず深い悲しみに沈んでいるけれど、もう以前ほど怖がってはいない。

そして朴沙羅さんが「みんなのための善いこと」の章で書いていたように、さらには「一人なら怖くてできないようなことも、他人と一緒ならできるかもしれない」と思っている。

団体を作ること、協力すればできることが増えること、交渉すること、みんなで声を上げること、そういう「みんなのための善いこと」を実現するための具体的な技術は、自分でやってみたり、他人がやっている姿を見なければ、たぶん身につかない。

ー『ヘルシンキ 生活の練習はつづく』

以前にElleのティルサマンスの連載で、スウェーデンの平和活動団体にインタビューした時に彼女たちが話していたことも繰り返し思い出す。

「世界に問題は多々あれど、平和を希求する運動は、市民個々人の活動のみでは限界があるのです」と。一人ではできないこともみんなと一緒ならできるかもしれない。

© Hiromi Blomberg 2026